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朝鮮日報 記事入力 : 2013/09/29 07:55
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2013/09/29/2013092900141.html
【コラム】韓国の大統領の評価をゆがめたのは誰か
独立運動の同志だった金九(キム・グ)、李承晩(イ・スンマン)、李始栄(イ・シヨン)の銅像は、現在全て「南山」にある。
とはいえ、同じ「南山」ではない。
金九・臨時政府主席、李始栄・韓国初代副大統領の銅像は、素月路と小波路の間にある南山公園に立っている。
一方、李承晩・元大統領の銅像は奬忠壇路の自由総連盟広場にある。
両者の距離は車で4キロ、タクシーなら4000ウォン(約370円)ほどだ。
もともと李・元大統領の銅像は、李承晩大統領第80回誕辰慶祝中央委員会が「2万人が1カ月食べていける40万ドル(現在のレートで約3930万円)以上」(当時の金泳三〈キム・ヨンサム〉議員の主張)を投じ、1956年に建立した。
場所は、現在の南山噴水台の位置に当たる。
4年後の1960年に4・19革命(不正選挙に端を発したデモにより、李承晩大統領が下野した事件)が起こると、デモ隊は市内のあちこちにあった銅像を倒し、この銅像も7月に撤去が正式に決定された。
金・元主席と李・元大統領の銅像の距離はわずか4キロだが、平均的な韓国人が2人に抱く認識の差は、その100倍くらいあるだろう。
片方は民族の指導者、もう片方は追放された大統領。
朴正煕(パク・チョンヒ)元大統領の銅像は、南山近辺に建立することさえできなかった。
まさにここで、右派は語る。
「左派が格下げした李承晩と朴正煕の像をきちんと建てるべきだ」
では「李承晩・朴正煕大統領の評価がゆがめられた」としよう。
その歪曲(わいきょく)の「元祖」は誰だったのだろう。
本当に「左翼のアカ」が始まりだったのか。
子どものころ、こんな話を聞いた。
「景武台(韓国大統領府。現在の青瓦台)でくみ取りをする人まで威張っていた」
「李起鵬(イ・ギブン)元国防部長官と李康石(イ・ガンソク)氏(李・元国防長官の実子で李元大統領の養子)が国を操り、事情を知らない李承晩大統領はロボットだった」。
1970年代にこんな話をしていたのは、「左派」ではなく、朴正煕大統領の忠実な支持者だった。
5・16クーデター(1961年5月16日に起きた朴正熙陸軍少将〈当時〉らによる軍事クーデター)を支持する人々にとって、前政権は無能と腐敗にまみれた存在だった。
李・元大統領の銅像が消えた南山に金九主席と李始栄副大統領の銅像を立てたのは、朴正煕政権の「愛国先烈彫像建立委員会」。
66年のことだった。
「日本の陸軍士官学校出身で元左翼」という前歴を過度に気にした人間・朴正煕のコンプレックスが根底にある、と解釈する人は少なくない。
李承晩大統領は李氏朝鮮を嫌い、それゆえ日本に滞在していた英親王(朝鮮王朝最後の皇太子)の帰国も妨げた。
これは知っている人にはおなじみの話だ。
その李承晩大統領を、朴正煕大統領がどれほど軽蔑したかも知っている。
李大統領が韓国ではなく亡命先のハワイで息を引き取った理由は「朴大統領が帰国に反対したから」、というのが定説に近い。
軍事政変を起こした全斗煥(チョン・ドゥファン)大統領が、朴大統領と同類に見られるのを嫌がったということも、よく知られている。
さらには、朴大統領の側近を、いかにして「不正蓄財者」に分類し、辱めたかということも。
「アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブをもうけ、ヤコブはユダとその兄弟たちを」と記すマタイ福音書にならって、韓国の歴代大統領の関係を見ることができるだろう。
「英親王を李承晩がたたき、李承晩を朴正煕がたたき、朴正煕を全斗煥がたたき…」。
失礼ながら、こうした「復讐(ふくしゅう)血戦」の系譜をたどることはたやすい。
与党同士でもこうだったのだから、野党が国権を握ったときはなおさらだった。
李承晩氏は英親王に無能な王朝のみを、朴正煕氏は李承晩氏に貪欲さのみを、全斗煥氏は朴正煕氏に権力のみを見いだした。
「見たいもの」の誘惑に負け「併せて見るべきもの」から目を背けた。
列強の競争の中でどうしようもなかった半島の運命を、自由民主主義国の土台を築いた人物は誰なのかを、豊かな暮らしの種に水を注いだ大統領は誰なのかを、消してしまおうとした。
韓国の歴代大統領に対し意地の悪いところを見せたのは、ほかならぬ韓国の大統領だった。
ある意味、左派はその状況を利用したわけだ。
もう少し正直になろう。
本当にきちんと歴史を記すためには、単に「左派」を攻撃するだけでいいのか。
右派内部の反省は必要ないのだろうか。
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「歴史を歴史としてみることができない」
という悲しいサガを韓国人は持っている。
すべては「愛国」なのだが、この「愛国」の定義は今時点の愛国の評価基準によっている。
あたりまえのことであるが、これでは昔の愛国思想はいまの愛国ではなくなる。
時代は変わっていくものである。
政治家は「将来の愛国基準」をもってして政治をするわけではない。
その政治をしているときに、「いま、もっとも為すべきことは何か」で行動する。
よってほとんどすべての政治行為は後世からみると幼く、いまの愛国にはあてはまらなくなる。
当たり前である。
誰が未来を見通せる。
これでは
いつまでたっても、韓国は客観的に政治を、そして歴史をみることはない
であろう。
過去の愛国は、現在の愛国によって破壊され、上塗りされていく。
よって、歴史が残る、ことはない。
今日の愛国も、明日の愛国によって押しつぶされる。
明日の愛国は、明後日の愛国に踏み潰される。
明後日の愛国も、明後々日の愛国に消されてしまう。
この繰り返しが永遠に続く。
よって、歴史が残らない。
残るものと言えば「1984」的愛国システムだけかもしれない。
ただ、愛国に値せずと打ち捨てられたものだけが破壊を免れていく。
それは歴史ではなく、「至近考古学」である。
『
朝鮮日報 記事入力 : 2013/09/29 07:41
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2013/09/29/2013092900133.html
【コラム】「韓国人の生活」は文化財ではないのか
主な会員が40代というインターネット上の会員制掲示板に、ある人が昔の写真を1枚掲載した。
大きな八角形のあずまやがあり、凍った池でスケートする人々が写っていた。
片隅にはケーブルカーも見える。
これを見た人々は
「この写真の場所はどこ?」
と記憶をたどったが、答えはなかなか出てこなかった。
数日後、ある会員が
「もしかしたら、これは昌慶苑?」
と書き込み、ようやく謎が解けた。
そこは1967年、ソウル市内の昌慶苑(現在の昌慶宮)春塘池に新しく建てられたが、今はなくなった「水晶宮」だった。
長い間忘れられていた1970年代の思い出が会員たちの間から一つ、また一つとよみがえり始めた。
父親と一緒にボートに乗ったこと、ゾウやキリンを初めて見たこと、遠足や修学旅行や夜桜見物のにぎわいなど…。
余暇を過ごす場所がまだあまりなかった当時、動物園やレジャー施設があった昌慶苑は、多くのソウル市民が訪れ、楽しんだ憩いの場だった。
だが、その「思い出」は1983年に突然終わる。
帝国主義の日本が1909年に動物園を作って市民に開放し、
1911年に朝鮮王朝時代の宮殿としての「昌慶宮」という名称から「昌慶苑」という名称に「格下げ」された
歴史を正すため、復元・整備が始まった
からだ。
光復(日本による植民地支配からの解放)後40年近くたち、遅まきながら「文化遺産に対する覚醒」が起こったのだ。
今ではすっかり復元された昌慶宮だが、実際に行ってみると物足りなさを感じる。
昌慶苑時代の名残や痕跡がほとんどないからだ。
1909年から83年までそこで起こった出来事は
「間違った歴史」として片付けられ、消去と忘却
を強いられたことになる。
帝国主義の日本が宮廷を傷つける蛮行を行ったのは事実であり、文化財の復元も必要だが、75年間にその場所を訪れた民衆の思い出や楽しさやにぎわいもすべて消去されなければならなかったのだろうか?
数日前、文化財庁が泰陵(ソウル市蘆原区)周辺の復元工事を開始するとして発表したプレスリリースでも、何かが引っ掛かった。
「泰陵は1960年代以降、選手村など各種施設が無秩序に建設され、朝鮮王陵の中でも最も損傷が激しかった」。
66年に建てられた泰陵選手村は文化財復元という視点で見ると、ただ『王陵を破壊した無秩序な施設』になってしまうのだ。
文化財庁は世界文化遺産に登録された泰陵一帯の「完全復元」を計画している。
方向性自体は正しいものだ。
もし、今新たに選手村を建設することになれば、認識が不十分だった1960年代のように文化財の敷地内に建ててはならないのは当然だ。
しかし、ここではっきりとさせておくべきことがある。
果たしてわれわれの祖先が作った王陵だけが文化財なのだろうか?
この40年間で韓国をスポーツ強国にした人材を送り出し、数多くの選手たちの夢と汗が染み込んでいる泰陵選手村は跡形もなく「消去」してもいい存在なのだろうか?
将来、私たちの子や孫たちに
「韓国のスポーツの歴史を物語る泰陵選手村をなくしてしまうなんて、どうしてそんな『文化財の破壊』をしたの?」
と聞かれたらどうするのか。
2008年の東大門運動場撤去についても
「近代文化遺産の歴史的価値を無視した拙速な措置だった」
と批判の声が上がっている。
もしかしたら私たちは、
祖先が残した遺産を復元することにばかり気を取られ、
「自分たちが生きてきた足跡」を一つ残らず消し去ってしまうという愚行に走ろうとしている
のではないだろうか。
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朝鮮日報 記事入力 : 2013/09/29 07:35
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2013/09/29/2013092900130_2.html
【コラム】韓国という国の成り立ち
韓国の政治・社会など全般にわたる国論の分裂は、なぜますますひどくなっているのか。
そこには、そうなるだけの「理由」があるはずだ。
でなければ、世の中がこのように「内戦的」な状況に陥るはずがない。
その「理由」は、はっきりしている。
「韓国はこうあるべき」という部分をめぐる建国当初の合意が壊れているからだ。
そのためこの「戦争」は、大統領選挙での国家情報院の政治介入疑惑や蔡東旭(チェ・ドンウク)検事総長の隠し子問題をめぐる攻防程度では収まらない。
現在表面化している対立の背後に隠された、真の大きな戦いの本質が何であるかを探るためには、そもそも韓国はなぜ、どのような国になるために誕生したのかを振り返ってみなければならない。
秋夕(チュソク=中秋節。今年は9月19日)直前、文筆界の長老イ・ホチョル氏と「平和統一文学館」の庭園で会った。
イ氏は、韓国はどのような国として出発したのかという問いへの答えとして、自著『星たちの向こう、あちらとこちら』を示した。
この小説の中では、独立運動家チョ・マンシクの霊魂が、北朝鮮の崔庸健(チェ・ヨンゴン)民族保衛相の霊魂に対しこのように語っている。
「李承晩(イ・スンマン)は既に1930年代から、スターリンという人物の本質を見抜き(中略)米国の地で(中略)いつかはそのスターリンに対抗する側にと(中略)人脈を作った。
49年に毛沢東が共産党政権を作った後も、あの方は全くびくともせず、自分の信じるところを曲げなかった。
(中略)初代大統領になった後も、ほとんどぎりぎりまで追い詰められながら(中略)朴憲永(パク・ホンヨン)と対決していたのだ。
(中略)それはまさに、当時にあっては米ソ対決の現場だった。
(中略)それからさらに60年が過ぎ、スターリンのソ連は根こそぎ倒れ、中国もあのように激変しているではないか。
世界的にこうした変化を起こしたその端緒が、まさに6・25戦争(朝鮮戦争)であり、まさに今のあの韓国なのではないだろうか」
一言で言えば、
★.日本の植民地支配からの解放は始まりでしかないということ、
★.その後にやって来る「自由主義か全体主義か」の世界的な一本勝負の方が大きな山場だということ、
★.そしてその時、韓半島(朝鮮半島)の人間は当然「自由」の側に立つべきだということを、李承晩氏は既に独立運動時代から理解していた
ということだ。
8月15日の解放後、李承晩の予見は的中した。
李承晩は、金九(キム・グ)・金奎植(キム・ギュシク)すら自分のもとを去り、米国国務省の融和派も「われわれは関係ない」とそっぽを向くという孤独な状況で、スターリン、毛沢東、金日成(キム・イルソン)、朴憲永の「大韓民国つぶし」に立ち向かわなければならなかった。
李承晩は韓米同盟によってその試練を耐え抜き、韓国の足場は堅固になった。
60年が過ぎた時点で、国際共産主義は崩壊し、チョ・マンシクの霊魂も「今のあの韓国なのではないだろうか」と感慨こもった言葉を述べるに至ったというわけだ。
これがまさに、韓国のアイデンティティーにして存在理由だ。
韓国は、チョ・マンシクの霊魂が現代史を見る時のような感激なくしてはきちんと立つことができない。
韓国は、与党・野党、保守・進歩を問わず、この点に関する共同の「信仰告白」があってこそ存続し得る。
なのに、この共同の「信仰告白」にひびが入っているというわけだ。
過去65年にわたり、洛東江で、血の稜線で、西ドイツの炭鉱や病院で、中東の砂漠で、浦項製鉄で、サムスン・LG電子で、現代・起亜自動車で韓国人が血と汗を流して守ってきた「信仰告白」が、またも「革命組織(RO)の信仰告白」によって侵害されたからだ。
日常のささいな対立までも大きな分裂へとあおり立ててきた、悪意の触手がまさにそれだ。
韓国学中央研究院の権煕英(クォン・ヒヨン)教授は、その「あべこべの信仰告白」について、インターネットメディア上でこのように説明している。
「韓国の歴史は、人民共和国をつくろうという勢力と大韓民国をつくろうという勢力の、闘争の歴史だ。
人民共和国をつくろうという歴史観が解放前後史の歴史をゆがめ、階級闘争によって国民を分裂させ、北朝鮮の蛮行は隠すというやり方で6・25戦争史をゆがめている」。
問題は、こういう筋金入りの連中が隅に引っこまず、連帯という形で「手と手を取り合って」長い鎖を作っているという事実だ。
統合進歩党の李石基(イ・ソッキ)議員を内乱陰謀容疑で逮捕するとき、「反乱」に加わった議員バッジの鎖はなんと25個に達した。
この鎖は、学術・出版・教育・文化の世界で「民族」や「自主」を好きなように解釈し、広場のろうそくを大きなたいまつにしようとしている。
時には極めて傍若無人で、粗暴ですらある。「韓国の歴史は誇らしい歴史」とでも言おうものなら、すぐに「殺してやる」と脅迫してくる。
どうすべきだろうか。不可避の戦いならば、避けることはできず、また避けてはならない。「朝露」程度のささいなものだと適当によけておくことはできない。スターリン、毛沢東、金日成、朴憲永の「大韓民国抹殺」史観には「大韓民国守護」史観で正面から対抗すべきだ。
』
「韓国はこうあるべき」
というテーマを先に掲げるというバカバカしさに気づかない愚かさ。
「韓国はこうあるべき」などというのは神様しか決められないことだ。
上の記事などはまるで読むに値しないのは、著者が「神様になったつもり」で書いているほどに的が外れてしまっているからである。
しかしまたそれが、国民に受け入れられているという状況も存在しているということもある。
この国の病巣は大きくて深い。
特に、
歴史好き、というより自己の浅薄さを客観歴史よりも上位に置こうとする愚かさ
がなせるワザワイとでも言おうか。
それが愛国という言葉で表現される。
よって歴史は一つだが、未曽有象の愛国が国に溢れかえっている。
その愛国が韓国の歴史を様々に書き換えていく。
元の歴史はもはやこの世に存在しなくなる。
もしその時の歴史を知りたいなら「至近考古学」で調べるしかなくなる。
上に積もり積もった愛国という土けらを丁寧に取り払って、一つ一つ埋もれた真の歴史を発掘するしか法がない。
考古学でしか、この国の真の歴史は掘り出せない。
【「底知らず不況」へ向かう韓国】
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